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かつて神戸に存在した巨大財閥 鈴木商店の隆盛 (創業辺)

かつて三菱や三井にも引けを取らない大財閥が神戸に存在ました。その名は「鈴木商店」一見すると個人商店のような名前に思えるかもしれませんが、最盛期には日本のGNPの1割が鈴木商店の売り上げだったと言われるほどの巨大財閥です。しかしながら今は鈴木商店の登記簿が残るだけで、今は跡形もありません。この鈴木商店の隆盛にロマンを感じざるを得ない筆者は、改めてこの鈴木商店に迫るべくここに書き残したいと思います。

 

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鈴木商店記念館より

 

鈴木商店とは

鈴木商店とはかつて、神戸に存在した巨大財閥です。砂糖の取引から始まり、その後台湾の併合から樟脳、樟脳油の取引で業績を伸ばし、様々なM&Aを実施することで軽工業、重工業にも手を出し日本のトップ財閥にまで上り詰めた企業です。第一次世界大戦では鈴木商店の飛躍期であり、スエズ運河を通る一割の船は鈴木の船であったともいわれ、また第一次世界大戦中の塹壕に使われた土嚢は鈴木の印がついた麻袋だったともいわれています。このように世界を股に掛けた鈴木ですが、その後忽然と姿を消してしまいます。鈴木の傘下に置いた企業は現在でもたくさん残っており、神戸製鋼所帝人をはじめ様々な会社が鈴木の傘下にあった企業です。

 

岩次郎による鈴木の創立

鈴木商店はその店主たる鈴木岩次郎が大阪の商人からあった店の神戸支店を引き継いだことから始まります。居留地外国人に対するビジネス、そして石油に着目したビジネスにより鈴木商店は神戸八大商人の一つとして数えられるまで成長します。しかし、岩次郎が52の時に急逝してしまいました。この後を引き継いだのが岩次郎の妻である「よね婦人」です。

 

金子直吉鈴木商店との出会いと番頭への昇格

ところで、その後、鈴木商店の繁栄を築いたのは金子直吉と呼ばれる番頭です。金子は、現在の高知県で生まれるものの家が没落し幼くして丁稚奉公に出ます。性格としては、誰かのもとで働くのは苦手だったが、仕事は生真面目であったと言われています。そんな金子はその生真面目さが評価され鈴木商店での柳田富士松に紹介され鈴木商店で奉公するに至ります。

 

金子の失敗と鈴木への忠誠

鈴木よね婦人に鈴木が引き継がれてから、金子は樟脳の取引で大失敗を犯します。樟脳とはセルロイドや火薬の原料ともなる重要な素材です。当時、金子は樟脳の重要性にいち早く気づいておりこれをもってして莫大な利益を上げんとするも、イギリス人の樟脳の買い占めと取引期が重なり、仕入れ価格が高騰、結果取引のための樟脳を用意することはできませんでした。腹切り覚悟で取引相手と交渉をする金子に対して、よね婦人は厳しくとがめはしなかったと言われています。よね婦人がこのころどういった心境で経営をしていたのか定かではありませんが、金子直吉の商才を見抜いていたうえでの処遇なのでしょう。以降、金子は鈴木へ大きな忠誠を尽くして奉公していきます。

 

まとめ

鈴木商店をその後飛躍させていく、金子に対して焦点を合わせて本記事を終わりたいと思います。次回はどのような商機をつかんで飛躍していったのかクローズアップしていきたいと思います。